約束
明日は慶に発つ。
大学を最短で卒業した。
「弓や馬はきつかったなあ。」
でも、あれがあったから毎日こうして人型で過ごす事ができるようになった。
慶に行ったら、立場上、自室以外で鼠の姿でいるわけにはいかない。
陽子は今でも言う。
「楽俊の楽な姿でいればいいんだ」
でも、おいらはちゃんと知っているぞ。
おまえが訪ねてくれた時、人型で迎えるとほんのり嬉しそうにすることを。
そして、ちょっとばかり恥かしそうな翠の瞳でおいらを見つめることを。
おいらだって、ようやく人型に慣れて、そりゃあ嬉しいと思う。


そう、あれはまだおまえがおいらのことを「ネズミ」だと思っていた頃だ。
鳥号で再会し、役所で海客の認定を受け、給付金も貰って、
それからは穏やかでいい旅だった。
再会してからのおまえは、おいらを信用してくれて、色々な話もしてくれた。
おまえ自身のこと、蓬莱のこと、どんな旅をして来たとか、たわいもない話とか…。
そんなある日、途中で手間取ってしまって次の街まで大急ぎで旅をしたっけ。
思いがけず黒い雲が湧き起こりいきなり手桶の水をこぼしたような雨が降り出した。
二人で息をきらして走ってやっと街の門に滑り込み宿を見つけた。

「あいにく、この雨でねえ。部屋はいっぱいなんだよ。
寝台が一つきりの部屋なら一部屋空いているがね?」
おまえもおいらもずぶ濡れで、おいらはそれこそ濡ネズミだ。
二つ返事で―――泊まった。
 
「乾いた布って気持良いよね。楽俊、ちょっと後ろ向いててね」
上着を脱ぎだす陽子。
「つ、つつしみを…」
「そんなこと言ってたら風邪引いちゃうよ。
早くふかないと…」
「よ、ようこ――っ!!」
布を身体に巻いただけのおまえが乾いた布をおいらの頭からスッポリ被せて、ササッと、おいらの毛皮を拭き始める。
「あわわわっ―――!!!」
う゛…っ、おいら、恥かしい……。
知らねえぞ、陽子、おいら正丁だぞ。ちゃんと言ってあるぞ。
でも、おまえはそもそも半獣って何か知らないんだよな。
もう一つの姿になって拭いたほうが早いんだが、
今ここで吃驚させるわけにもいかねえし…。
 
着物が乾いた頃を見図って飯を食いに行く。
雨は途切れなく降り続き、宿の食堂で済ませて、すぐ部屋に戻る。
「まったく、よく降るよね」
「ああ、まったくだ」
雨音を聞きながら、とりとめもない話をする。
疲れたのか、おまえが欠伸をかみころし始めたので、おいらは上掛けの一枚を持って床に横になる。
「もう、寝ろ。明日またきつい旅になるぞ」
「???楽俊?」
「へっ…?」
「何でそんな所で寝るんだ?」
「何でって、おまえ…。当たり前だろ。おまえはそこで寝ろ。おいらはここでいいから!」
「だめだ、楽俊!友だちを地べたに寝かせて、自分だけ寝台に寝たりできるもんか。二人で充分寝れる広さだ、ほら?」
「ほ、ほらって…、そういうことじゃなくって…」
「そうも、こうもないだろ?」
そう言っておいらの横に座り、見とれてしまいそうなほど綺麗な翠の瞳で真摯においらを見つめる。
「地べたで一緒に寝る?寝台で一緒に寝る?どっちにする?」
「よ、ようこ……」

陽子、おいらは半獣で、正丁で、そして、おまえは知らないだろうがこの姿の他にもう一つの姿があって…。
…って、何で、こんなにもう一つの姿にこだわっている?
どうかしているぞ、おいら?

「楽俊は遠慮するから…。どうせ私が眠ったらすぐ床に行っちゃうんだろ?」
おいらは結局壁側に寝かされた。
さすがに陽子も背中合わせで寝る。
でも、おいらは生きた心地、しなかったぞ。―――いや、というよりドキドキして、おいらの
心臓の音がおまえに聞こえるんじゃないかと、実はさらにドキドキしていたんだ。

「らくしゅん…寝た?」
「いんや、起きてる。(――眠れるわけねえだろ――)どうした?眠れねえのかい?」
「うん…。らくしゅん、私…帰れるかな?」
「わかんねえ。でも延王さまにお会いすれば、何か方法があるかもしらねえだろ?」
「そうだね。でもさ…、もし、もしもだよ」
「……?」
「もし、私が帰れなくて、それで、延国で暮らす事になったら…、その…」
「何だ?」
陽子が言いよどんでいる風なので振り返る。
「楽俊さえ嫌でなかったら、少しの間でいいから、私と一緒に暮らしてくれないか?」
おいらは、ひげもしっぽも硬直したみたいにピーンとなっちまった。
「無理は言わないよ。ごめん…」
そうじゃないんだ、陽子。おいら、嬉しいんだ…。
それに、こっちの事を何も知らないおまえを、一人で放り出せるかい!!
……でも、おいらのもう一つの姿を知っても、そう言ってくれるか?

「おまえ、帰りたいんだろう?望みは捨てちゃだめだ」
「…うん。」
「でも、もし、もしも、だ。もし帰れなかったら、一緒に…いよう。
おまえが、もういいというまで、だ」
「…。ありがとう、らくしゅん」
ほっと小さなため息をつき、
嬉しそうに自分の小指をおいらの小指にからませる。
「蓬莱では破っちゃいけない約束をする時、こうやって指きりをするんだよ」
二人で顔を見合わせて笑った。
「もう、寝ろ。おいら、ちゃんと一緒にいるから、な?」
「うん。ありがとう、らくしゅん」
陽子はまた背を向けた。

――陽子はむやみに人を頼ったり甘えたりしない。
しかし、遠慮がちに「少しの間一緒にいて欲しい」と言わせるほど
この世界で孤独なんだ。
たかだがネズミ一匹しか頼る者がいない…。
こんなに雨が降り続く晩で、
心細いから、とわかっちゃいるけど、
でも、なんて嬉しい事を言ってくれるんだろう。
   


「帰してやりたい」これは偽らない気持だった。
でも、おそらく「帰れない」ということも知っていた。
まさか、あんなことになるなんて、想像すらしていない頃だったから、おいらが力になってやりてえ、って本気で考えていた。
不憫だと思う気持も勿論あった。
信じてくれる友情も嬉しかった。
が、…日頃は自立心が強く、生真面目で、ぶっきらぼうな雰囲気さえ感じさせる陽子の、時折見せる破天荒な大胆さや、稀に垣間見る少女らしい可愛らしさに 「目が素通りできない」どころか「目がくぎ付け」にされちまっていたんだよな。
そして…
いつかおまえにおいらのもう一つの姿を知ってもらいたい…、と。

激しい雨は一晩中降り止まず、
おいらは薄明るくなるまで眠れなかった。



それから先は、仰天するような事実が明らかにになり、おまえは慶国の新しい女王になって慶に行き、おいらはご褒美に延の大学に入ることが許された。
別々な道を歩くことになったけれど、また、道が交わる日を目標においらも頑張った…。

――いよいよ、そして、やっと、明日からはおまえの側にいる。

「一緒にいよう」と約束した最初があの日だってことを、おまえは覚えているだろうか?




【終】



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 執筆者:聖さま(No.29)