春眠暁を覚えず

 慶国は春。寒さも解け、其処彼処で本格的に農作業が始まり、旅人達の往来も増えはじめる。国中が急に色付いた様に活気が満ちてゆく。
 するとその賑わいの陰で、農作業用水の分配だの街道の治安の維持だのと、様々に問題が起こるのも必然であり、今、慶国金波宮は上から下まで大忙しなので ある。
 そんな訳で、大忙しの最たるものである景王陽子は慣れない書類処理に悪戦苦闘していたわけだが。生来の生真面目な性分が祟ってか、手を抜く事をしない陽 子は、流石に疲れ切っていた。
「ちょ、ちょっと陽子!どうしたの!?」
 現在陽子の女史を勤める元芳国公主祥瓊は、久しぶりに見る余りにも変わり果てた陽子の姿に、宮中にあるまじき大声を上げた。
「ああ、祥瓊。別にどうもしないよ?」
 へろへろと力無く手を上げる陽子に、眦を吊り上げた祥瓊は怒鳴る。
「どうもなくないでしょうが!貴方自分の顔鏡でみてる!?」
 何しろ鮮やかだった赤い髪は櫛は入れられているものの、明らかに生気が無く乾いて輝きを失い、緑玉の瞳はぼんやりと霞んで何処か白っぽい。極め付けは血 の気の失せた真っ白な頬と、眼の下にくっきりと現れた隈。
「少しは休みなさいよ。そんなふらふらしてたら終わる仕事も終わらないでしょう?」
「いや、でも浩瀚なんか私の忙しさの比じゃないし。」
「浩瀚様と比べるのがお馬鹿なのよー!!」
 確かに慶国冢宰たる浩瀚よりも忙しい人間はこの金波宮には存在しないだろう。しかし。
「陽子は普段のお仕事の他にも太師について勉強とかしなきゃいけないじゃない。大体浩瀚様と陽子じゃ、この仕事に関しての年季が違うのよ!そんな方と比べ てどうするの!?」
「いやでも、王というものは国で一番の働き者でなければいけないらしいから。」
 碌に回らない呂律で、それでもさも当然というように言う陽子に、祥瓊は疲れたように肩を落とす。
「・・・どうしてこの子はこう、馬鹿真面目な上に頑固なのよ。」
 肩を落とした祥瓊を陽子は不思議そうに見ていたが、不意に後ろから声をかけられた。
「陽子。」
「鈴。どうしたの?」
「太師からご連絡。急用が入ったから午後の授業は中止だってさ。」
 それを聞いた祥瓊は物凄い勢いで陽子に掴み掛かり、酷く真剣な瞳で訴えた。
「丁度いいわ。陽子、今日の午後は休みなさい。ゆっくり休みなさい。とにかく休みなさい。そのやつれた様を何とかしなさいー!!」
「え、でもまだ仕事はあるからそっちを片付けようかと。」
「や・す・み・な・さ・い。」
 そんな二人のやり取りを呆気に取られて聞いていた鈴は、ふと我に帰ってポンと手を打った。
「祥瓊、祥瓊。」
 手招きをして祥瓊に耳打ちする。その内容に祥瓊は驚いて眼を見開き、次いで瞳を輝かせた。そして二人して陽子に向き直る。
「祥瓊の言う通りだよ、陽子。太師だって心配なさっていたし、皆心配してるんだよ。」
「そうよ。口には出さないけれど浩瀚様だって台輔だって心配なさっているわ。折角陽子を支えて下さる人達に、心配をかけたままで良いの?」
 二人の少女の発言には幾らかの誇張が混じっていたが、その態度にはそれを疑わせる要素は何一つ無かった。げに恐ろしきは女の演技力か。
「・・・そこまで言うのなら、少し休もうかな。」
 その言葉に、祥瓊と鈴が眼を見交わしてにやりと微笑んだのは言うまでもない。


「ええと、ここをまっすぐ行って、二番目の部屋か。」
 先程までは何とか気を張っていたものの、矢張り一度休む事を決めると力が抜けるのか。既に朦朧としはじめる意識を何とか押しとどめながら、陽子は扉を開 けた。すると。
「あれ?陽子も休憩か?」
 疲労と眠気の為にぼやける視界に入ったのは、長椅子に腰掛けて茶を飲んでいる楽俊の姿だ。今迄何かの作業をしていたのか、珍しくも人間の姿でいる。
 既に意識は半分眠りの世界へ飛んでいたが、陽子は何とか口を開く。
「あれ?楽俊?」
 何で楽俊がここに居るんだろう。此処には長椅子があって昼寝には丁度良いからって祥瓊と鈴が教えてくれたのに。楽俊も昼寝に来たのか。ああ、あれが二人 が言ってた長椅子だな。確かに寝心地が良さそうだ。・・・眠いな。
「や、書庫の帰りにちょっと休憩でもと思ってな。」
 長椅子に座っている楽俊が何か言っているけどよく分からない。眠い。眠りたい。
「・・・そうか。」
 半ば閉じかけた眼でふらふらとやってくる陽子に、流石に不審に思ったのか楽俊が心配そうに声をかけようとした瞬間。
 陽子は長椅子の楽俊の横にちょこんと腰掛け、そのままぱたんと倒れこんだ。
 楽俊の膝の上に。
「うわっ、よ、よよよ、よ、よ!?」
 動転のあまり意味のない言葉を繰り返す楽俊に、陽子は閉じていた眼を開けて楽俊を見上げ、ふらりと手を伸ばしてその頬にふれる。
「陽子、だ。楽俊。」
 そう言ってふわりと微笑む。力尽きた様に腕が落ちた。
 思わず顔を赤くする楽俊を取り残して、ことんと陽子は眠りに落ちてしまった。
 残されてしまった楽俊は暫くの間顔を真っ赤にしたまま動けなかったが、漸く硬直が解けてくると、ぎこちなく腕を動かして陽子の髪を梳く。
 生気の無い、痛んだ髪に顔を顰める。こんなになるまで休む事を己に許さない彼女が痛ましく、けれど誇らしくもある。
「寝顔は年相応なのにな。」
 やつれてはいるけれど、未だあどけなさを残す寝顔は少女のそれなのだ。疲れるのは当然だし恥じる事でもないのだと、言ってやりたかった。
「あんま、無理すんなよ。」
 髪を梳く手を止めてその紅い髪を一房手に取ると、楽俊はこの苦労性な王様を労るように、そっとその髪に唇を寄せた。
「お疲れさま、陽子。」
 そう言って苦笑するその顔は、しかし真っ赤に染まっていたそうだけれど。
                                       終。

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 執筆者:奏水 藍さま(No.4)