潮の香り

――手紙?
 朝議を終え、内殿へと向かう回廊を歩いていた陽子は、ふと隅に落ちている白い物に、目が止まった。
 「文の様でございますね」
後ろに控えていた小臣が素早く拾い上げると、検分に取り掛かった。
 「宛名も、差出人の名前もございませんね・・・・」
 確かに表には何も書いてない。彼は躊躇いもせずに、巻くように畳んだそれの中身を読み進む。
 「主上、これは後ほど私が天官府にでも届けて参ります。誰ぞ名乗り上げる者が居るやもしれません」
 暫くそれを黙って見ていた陽子は、意味有り気な笑いを噛み殺している小臣の手から、手紙を抜き取った。
 「いや、この字には見覚えがある。私が預かっておこう」
 陽子は小臣を下げさせ、内殿奥の書房に入って行った。
――間違いない、楽俊のものだ
 実直で、尚且つ達筆な字から滲み出る柔らかさは、その人柄を表していた。陽子は、幾度も彼が書状をしたためる姿を間近に見ている。こうして改めて見渡し てみると、やはり、彼のものとしか考えられなかった。
――何だ?この「恋」とか「惚」とかは・・・はぁ・・その上「愛」だと?
今だ、恥ずかしい限りの読解能力で、勉強の足りなささを痛感しながら読み進むと、思いもよらない字を見つけた。
――こ・・これは、まさか・・・ラ・・ラブレタ―?!
そうとしか思えない。
――じゃあ、――いったい相手は誰だ?
 ふと浮かんだその疑問に、胸が高鳴り、体中に緊張が走る。さらに手紙を開け、続きを読み進む。
 「――祥瓊?」
 そこに、共通の友人である彼女の名を見つけた。一時、耳から音が遠ざかる。やはり、そうかと思った。自分とは余りにも違う、その華やかな美貌、艶やかな 仕草。翌々、考えてみれば、彼が想いを寄せる事は何ら不思議ではない。しかし、なぜかしら暗澹たる気分に苛まれ、怒りにも似た感情がふつふつと湧き起こ る。今にしてみれば、以前彼らが逢引している噂を耳にした事がある。その時は、当の本人達も否定をし、陽子自身も真実とは思えず気にも留めなかった。
――そうなら・・・なぜ?私が知らない?・・・・教えてはくれない?
 陽子の中で湧き起ったそれは次第に渦を巻き、大きくうねり荒狂う。耐えがたい衝動が心を蝕み、気が付けば、先刻退出した外殿――朝議の間へと戻って来て いた。
 「―楽俊、話がある」
漸く所用を終え、一人秋官府へ向かおうとした矢先、突然物陰から呼び掛けられた。
 「――よ・・陽子?・・・どうかしたのか?」
 気の知れた者ばかりの路寝とは違い、ここでは自分は一介の官吏に過ぎない。他の者に見られれば面倒な事になる。自然、音を殺し周囲を見回す。そして、 ゆっくりと近寄る。すると、彼女は黙ったまま、目の前に何やら白い物を突出した。――それには、見覚えがあった。
 「――そっ・・そいつは・・・・・・」
 短くそう叫ぶと、慌てて懐を弄る。やはり、見付らないのか顔色を僅かに曇らせ、暫くの間、陽子と手紙を見比べた。
 「・・・読んじまったのか?」
 彼女は、ただ頷く。気のせいか、睨んでいるような気がした。
 「あぁ・・・そっか、・・仕方ねえなぁ・・」
 そう言って、いつものように耳の下をぽりぽりと掻く。のほほんとした仕種は、ネズミの時と変わらない。今は、そのどこかとぼけた姿に、酷く怒りを覚え、 陽子の頭の中で何かが切れた。
 乾いた音と共に、軽い衝撃が襲った。一瞬、楽俊は訳が解らず、呆然とするほか無かった。たった今、引っ叩かれた頬がヒリヒリする。彼を混乱に陥らせた者 は、こちらを睨み据えると、素早く踵を返して去ってしまった。
――なっ・・・・・なんだぁ?
 漸く我に返った楽俊は、取り敢えず後を追いながら考えた。自分が陽子を何か怒らせたらしいのは分かる。だが彼には、その何かがまったく思い当たらなかっ た。
 人目も有り、脇目も振らず足早に前を行く主君に、声を掛けられる筈が無い。何気なさを装いながら付いて行くしかなかった。
――どこまで行くつもりだ?
 しかし、内殿を越え幾つかの宮の横を通り過ぎ、楽俊は次第に見慣れた景色から、行き先に見当を付ける事が出来た。
 「陽子ぉ!―なぁ・・おいら、何か機嫌損ねるような事しちまったか?・・・・」
 横顔を覗き込み話し掛ける。返事は無い。だが、顔付きから険が薄らいでいるのが見て取れ、少し安堵した。
――随分と、遠くまで来てしまったんだな
陽子はいつの間にか、後宮の奥にまで足を伸ばしている自分に気が付いた。
――私は一体、何にこんなにも腹を立てていたんだ?
 頭が徐々に冷えて来る。そうすると、先刻、あのような行動を取った自分が恥ずかしくて、穴が在ったら入りたい程だ。後ろにいる楽俊に見せる顔が無い。如 何し様か思案し倦ねてる間にも、薄暗い隊道を抜け、両側を切り立った岩山に挟まれた場所に行き当たった。
 岬の向こうに広がる雲海からは、爽やかな潮の香りがそよ吹き、見上げれば新緑の眩しい木々が生い茂る、足元には瑞々しい柔らかな草原が辺り一面覆ってい た。
その上に、陽子が腰を下ろしたのを見て、楽俊も横に座った。
「・・・楽俊・・ごめん・・・・」
「ん?」
「・・さっきは・・・叩いたりして・・・その・・・痛かった?」
「・・あぁ、ちょっと・な」
彼は頬に手をやりながら、軽く笑って受け流した。
「・・ごめん・・」
そう言って、伏せ目がちにこちらを見る翠の瞳は、薄っすらと潤み、恥じらいでいるのか頬がほんのり色付いていた。普段は垣間見ることの無い、余りの可愛ら しさに悪戯心が芽生える。
「何をあんなに怒ってたんだ?」
努めて優しく問いただ質す。
「・・・だって」
「だって?」
「・・まるで・・私独りが除け者みたいじゃないか・・」
「――除け者?」
意外な事を言う。彼女は頷くと話を続けた。
「楽俊も祥瓊も・・・私の友達だろ?・・なのに内緒で付き合ったりして・・・それならそうと教えてくれればいいじゃないか――そう言うのを除け者って言う んだ」
「おい!――ちょっと待て!いつおいらが祥瓊と?」
寝耳に水とはこの事を指すのかも知れない。
「またしらばっくれて!いつもそうやって隠す――二人でこそこそと内緒で逢ってるって知ってるんだから」
確かに、思い当たる節がある。やましいような事ではないが。
「落ち着けって――」
 こんなに興奮していては、弁解の仕様が無い。
「これが落ち着いていられるもんか!」
 支離滅裂である。
「――じゃあ・・・百歩譲って、おいらが祥瓊と付き合っていたとしよう。――で、それのどこが悪いんだ?・・・じゃなにか?おいらは祥瓊と会うたびに、お 前に報告しなきゃいけねぇのか?」
「――え?」
「陽子とおいらで時々、こうやって会ってるよな。でもその後、いちいち祥瓊に教えた事ってあったのか?」
「――い・・いや、・・・・私は無い・・・」
「おいらも無えよ――」
陽子は深くうなだれる。
「じゃあ、何が嫌なんだ?」
冷たい問い掛けに言葉が出ない。陽子自身、何が嫌なのかはっきりとは分からなかった。ただ、胸を締め付けられるような息苦しさを感じていた。知らず涙が零 れる。それを見て、楽俊は慌てふためいた。
「すまねえ!・・・おいらが言い過ぎた」
そこまで、追い込む気など、楽俊には更々無かった。
「・・いや・・済まないのは私の方だ・・・詰まらない事でこんなに騒ぎ立てて・・・」
楽俊の表情が硬くなる。
「・・・詰まらない・・こと・か・・・・」
楽俊は消えそうな声でそう呟く。
「え?」
「いや・・・なんでもねぇ。・・・あのな、言っとくけどな、別においら、祥瓊と付きあってる訳でもなんでもねえぞ」
「だって、これには――」
陽子は思い出したかのように、手紙を差し出した。
「あぁ――それな。確かに書いたのはおいらなんだけど・・・実は、桓たいに代筆を頼まれてな・・・口止めされてたんだがなぁ・・・・・秘密だぞ――」
「なんで、また・・」
「祥瓊にせがまれたんだと」
 二人して思わず吹き出してしまった。祥瓊の気持ちがなんとなく分かる気がする。
「でも――」
「ん?――まだなんか有るのか?」
「蒸し返すようだけど、祥瓊とは何を話していたの?」
 彼は少し考え込んだ。
「随分前の話になるが、半獣にも恋愛感情が有るのか?と、聞かれたことがあってな・・・半獣が野合はおろか婚姻を結んだなんて話、聞いたこたぁねえし。そ れにほら、桓たいはいつもあんな調子だろ・・・」
「それで、何て答えたの?」
「有るって言った。普通の男と一緒だって」
 会話が一旦そこで途絶える。二人の視線の先では、雲海の澄んだ水が静かに波打っていた。
「・・楽俊は・・どうなの?・・誰か、いる?」
 陽子は遠慮がちにそう呟く。何故だか、とても気になった
「――そ・・そりゃあ、いるにはいるが・・・残念ながら、片想いだ・・・」
僅かに上擦った声でそう言うと、溜め息をつきながら切なげに目を逸らした。
「・・やっぱり、祥瓊みたいな綺麗な人?」
「なんでそうなるんだ?・・別においら、顔で選んでいる訳じゃねえぞ」
 冗談ではない、とでも言いたげだ。
「――だったら・・・どんな人?」
「・・・知りたいか?」
一呼吸置いて、ぼそっと言った問いに、陽子は黙ったまま頷いた。
「じゃあ・・・ちょっとだけだぞ。・・えぇとぉ・・まず・・すらっとした美人だな」
「ん?・・顔は関係なかったんじゃないのか!」
陽子は口を尖らせ、軽く睨む。
「仕方ねぇだろぉ――惚れちまったもんは」
彼は咳を払い、続ける。
「でもな・・器量は良いんだが、ちっとも女らしくねえ。がさつてぇほどじゃ無いんだがなぁ――ぶっきらぼうな所があるな――あとは、迂闊な上に頑固者で、 何かってあると独りで突っ走っちまう。見ているこっちの方がハラハラしちまう」
「ちょっと待った――随分な事言っているけど、本当に好きなのか?」
「あぁ・・・おいらも不思議くらいだ」
 そう言って、彼は軽く笑う。
「――で?」
「これで終わりだ・・」
「――これだけか?――もう少しだけ・・・教えくれないのか」
 陽子は如何にも不満気だ。
「ここから先は、ばれちまうんだがなぁ・・・」
 楽俊は軽く唸ると、困ったように黙り込み、ちらっと陽子を見た。許してはくれそうに無い。「わかった」とだけ、溜息と共に吐き出す。
「――歳の頃は、十六・七――肌は、そうだなぁ・・日に焼けた様な褐色て言うやつかな・・・宝玉のような翠色の瞳に、朝陽のように鮮やかな紅の髪・・・」
 陽子が目を見開いてこちらを向くのがわかる。
「半獣のおいらなんかじゃ、とても太刀打ちなんか出来ねえ。――この・・慶東国の王様だ・・・」
 意味が一瞬飲み込めない。
「――うそ・・・私の事をからかっているのか?」
「嘘でもからかってるんでもねえ。――本気だ!・・・・ずっとだ・・・ずっと好きだった・・・」
 陽子は言葉を失い、ただ息を飲む。彼は苦しそうにそう言い、顔を背けたまま、さらに話し続ける。
「・・・言ったろ・・烏号――雁でお前と再会した時・・・・目が素通り出来ねえって・・・」
 ――・・だからおいら、お前が王様だってわかった時、目の前が真っ暗になっちまった・・・お前はあんなこと言ったけど・・やっぱり、今でも遠すぎ らぁ・・・・・
「――気が済んだか?」
 楽俊は、すっと立ち上がり、今だ、口を閉ざしたままの陽子の方に、振り返った。
「――さっ・・・戻ろう。皆心配しているぞ」
 柔らかな眼差しを向けられ、陽子が戸惑っていると。
「そうか・・・じゃあ、おいら先に行っているな」
 顔を曇らせ、そう言って背を向けた。だがすぐに動きを止め、そのまま後ろに語りかける。
「――なあ陽子。ひとつ頼みが有るんだが・・いいか?」
「・・・・・・何?」
「さっきの事・・・おいらが言った事、忘れてくれねえか?・・その・・何ていうか・・この先も、お前にそんな顔で見られると思うとな・・さすがにおいらも こたえる・・」
 今度こそ、立ち去ろうと歩き出した楽俊の袖を、引き止めようとする手が強く掴んだ。
「――陽子?」
 振り返った楽俊の目に、困惑の表情を浮かべる陽子の顔が映った。
「・・・それは嫌だ・・・出来ない・・私にもよくわからない・・けど・・それはとても困るんだ・・」
 何かを訴えかけるような瞳を潤ませ、立ち上がりながら、陽子は搾り出すように言った。
 その刹那――
「・・・・・・・楽俊?」
気が付けば、陽子は楽俊の腕に抱かれていた。積年の想いが溢れ出すように、強く、強く力が込められていた。その、きつい程の戒めに、苦しみよりも幸福感が 先立ち、体中に満たされていくのを、陽子は感じていた。
 どれ程の時間が経っただろう。霞む思考で、男の力強い鼓動を聞いていた時、不意に、戒めが解かれた。
「ごめん!――陽子!」
楽俊は酷く狼狽しながら体を引き離そうとした。だが、陽子は両の手で着物を掴んで離さない。
「――よ・・陽子?」
 今度は楽俊が驚く番である。
「・・謝らなくっていい・・何故かって・・・正直言って、自分でも分からないんだ・・・でも・・楽俊と居ると楽しいし――他に好きな人が居ると考えるだけ で胸が痛んだ・・・今、こうして、抱き締められて・・とても嬉しく感じた・・・・きっと、こういう気持ちの事を、好きって言うと思う・・・」
 そう言って、呆然としたまま動かない楽俊の首に腕を絡める。
「――だから・・もう・・私に、遠慮なんてしないでくれないか・・」
 返事は、口を塞がれて声に成らなかった。
                                                    終
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 執筆者:彼岸花さま(No.5)
 [楽陽男女